管理人のマイマイ/My助こと町田舞です。
この記事では、自己紹介を兼ねて私自身の人生・プロフィールを書かせていただきます。
Contents
トライアンドエラーの連続!踏んだり蹴ったり揉まれる人生
(最近…ショートカットになりました)
私は現在、看護メディアのライター業、看護師のオンラインサロンの運営などをしながら、フリーランスとして活動しています。
最近ではナース交流会・セミナーの企画・主催、転職相談、訪問看護事業の採用・広報など・・・看護師を外側からサポートする仕事が増えてきました。
また、システムエンジニアだった経験を活かしてウェブデザイナーなどもやるようになり、パラレルワーカーな働き方をしています。
✔20歳 IT企業に就職(システムエンジニア)
✔24歳 フリーター
✔25歳 介護士
✔25歳 看護学校に入学
✔27歳 准看護師→30歳 看護師
✔31歳 フリーランスに(三年目に突入、今に至る)
そして仕事の振り幅がでかい・・・!
とにかく動いては転び、その度に這い上がる・・・そんなトライアンドエラーの人生です。
我ながら、よく死ななかったな~と思っています。
もう笑うしかない・・・♪
諦めから始まる人生。お金も愛もない両親の元に生まれる
私の子どもの頃の話をすると、残念な話しかありません。
父は売れない翻訳家、母は売れない小説家という典型的な貧乏家庭に生まれた次女が私でした。
貧乏で家にテレビがなかった幼少期、お米が買えなくて質屋に婚約指輪を売ったという母。
父と母はたびたび喧嘩をしていたし、生活に手がいっぱいで二人の娘には無関心。
お菓子を買ってもらったことも、クリスマスにサンタさんからのプレゼントをもらったこともありませんでした。
そういえば、子どもの頃に一度も家族で外食したことない・・・。
親の愛情を受けられずに人との接し方が分からなかった私は、当然友達作りができないいじめられっ子。
ネグレクトな親にいじめを打ち明けることはできず、担任の先生の介入によりいじめが悪化したこともあり、信頼できる大人はひとりもいない・・・。
小学校の頃は常に自殺が頭をよぎる毎日でした。
これでもかってくらい人生詰んでました。
働くことで、初めて生きている実感が沸いた
中3の終わりに両親が離婚し、母と姉と三人の生活が始まりました。
心機一転、高校生活。
「高校☆デビュー♪」
・・・とか特に頑張ったわけではないですが、環境が変わったら自然と友達ができました。
でも高校生になって一番嬉しかったことは、仕事ができる年齢になったことでした。
やっと働ける~♡
働いていいんだ・・・!
自分で稼がないと携帯電話とか服とかメイク用品とか何も買えないので、高校に入ったらすぐにバイトをしようと思っていました。
ただ、やっと友達ができたとはいえ、人と関わるのはとても怖い。
女子高校生当時の自分に応募できるアルバイト求人は、接客業がほとんど。
人前に出たら倒れそう・・・!
ネガティブな思い込みと恐怖心から、なかなかバイトが見つかりません。
最初は夏休みに工場の仕分け、次に郵便局のハガキの仕分けなど裏方の短期のバイトをなんとかこなしました。
そして高1の終わりに近所のスーパーで「女の子はレジに・・・」と言われながらも、頼み込んで寿司・惣菜部に配属してもらい卒業までお世話になりました。
裏方でコツコツやる仕事は、自分に合っていました。
黙々と仕事をする高校生の私に、社員さんパートさん・・・大人たちはみんな気さくに声をかけてくれました。
相手の目を見て話せなかったり、冗談が通じなくて真に受けたり、返しが下手くそだったり、返答に困って無言になったり・・・そんな私でしたが、周りの人は温かく接してくれました。
それなりに楽しい高校生活、充実したアルバイト生活。
ただ、特にこれといって好きなことも将来やりたいこともありませんでした。
家は相変わらず貧乏だったので、高校卒業後の進学は絶望的。
「自立しなきゃ。特にやりたいことはないけど、女一人でも生きていけるようなスキルがあったらいいな。どこか専門学校には行きたいな」
と思い、たくさんバイトをしてお金を貯めていました。
そして「女性でもキャリアアップできそう」という想いと「人とあまり関わらなくて済みそう」という後ろ向きな理由から、高校卒業とともにIT系の専門学校に進学。
自分を嫁にもらってくれる人はいないだろうと思っていたので、「一生一人でも自立して生きていける仕事」としてシステムエンジニアを選択し、20歳で就職しました。
うつ病になり人生のどん底を味わう
IT業界と言えば残業。
覚悟はしていましたが、仕事は忙しくて大変でした。
それに加えて女性が少ない男性ばかりのIT業界・・・一つのプロジェクトに女性が自分一人というのも当たり前です。
親しい友達は片手で数え切れるほどしかいない・・・。
男性と話すのが怖い・・・。
そもそも人と関わることを避けてシステムエンジニアになった私には、仕事で疲弊していく苦しさを打ち明けられる相手がいませんでした。
徐々に仕事に行くのが辛くなり、夜眠れなくなっていきました。
何より満員電車での通勤が辛く、朝の出勤だけで気力を使い果たしていました。
悩みを打ち明けられる相手がいなかった私は、一人になれる家のお風呂で声を殺して泣いていました。
そして段々堪えきれる時間が短くなり、帰りの電車で泣くようになり、職場のトイレで泣くようになり、ついに自分のデスクで号泣してしまいました。
驚いた上司にその場で早退させてもらい、その足で心療内科に行きました。
「うつ病だね。とりあえず仕事行くのやめなさい」
診断書を書かれ、休職することになりました。
天井を眺めて泣いているだけで一日が終わったり、自傷したり睡眠薬を大量に服用したりしながらも、結局死にきれませんでした。
二度の休職を経て復職し、なんとか抗うつ薬を飲まなくてもいい状態まで持ち直しました。
でも通院が終わったとき、ふと思いました。
お金を稼げなくても、他の仕事でいいかな。
24歳で退職しました。休職したときはすごく孤独を感じていたのですが、休職期間中に新しい友達や支えてくれる恋人ができ、大きな救いになりました。
辞めたらすっと心が楽になりました。
「生きていられるだけで、普通にごはんが食べられるだけで幸せ」そんな想いが湧き、毎日生きていることに感謝できるようになりました。
失敗するのは当たり前、何にでも挑戦しようと思えるようになった
当時の私は、正社員か派遣かバイトか、という働き方しか知りませんでした。
就職難でアピール下手。
転職は決まらずフリーターでバイトを掛け持ちしました。
苦手な接客に挑戦しましたが、仕事の覚えが遅く話すのが下手・・・。
楽しさはありましたが、「やっぱり向いてない・・・」と感じました。
そんなある日、近所の病院の求人に目が留まりました。
”未経験可、ヘルパーさん募集”
「絶対、自分には無理だろうな」そう思いながらも「そもそも失敗しかしてないんだから、失うものは何もない」と思い、介護に挑戦することにしました。
ダメだったら、違う道を探せばいい。
介護から看護へ。天職に巡り合う
そうして飛び込んだ介護の現場。
介護の大変さは色々とありますが、最初につまづいたのは排泄物の臭い。
そして動けない患者さんを寝返りをさせたり、車椅子に移動させたりと、肉体的にも重労働。
職業病が腰痛というのも納得です。
そして給料が安い。とても安い。
でも「ありがとう」と笑顔を向けてくれるたくさんの患者さんとの出会いが、私の心を明るく照らしてくれました。
病院の看護師さんにすすめられ、看護学校を受験。
当時はリーマンショックなどがあり、就職難の影響で約30人募集のところに受験者は200人強。
絶望的な倍率でしたが、なぜか合格しました。
5年間の勤労学生生活で、折れない精神力を身につける
私は”准看護師”を経て”看護師”になりました。
2年間ヘルパーとして病院で働きながら准看護師の資格を取り、卒業してすぐに看護師の学校に入学。そこから3年間、准看護師として働きながら看護師の資格を取りました。
5年間の勤労学生生活。この間に結婚(8年ほどの結婚生活を経て、現在は離婚)もしました。
早朝から働き、学校のあとの夕方も働き、夜勤もし、家事もしていました。
周りからはすごく頑張ったねとか大変だったでしょとか言われますが、不思議と辛くはなかったです。
天職に巡り会えたと思えたんです。
周りの誰よりも勉強し、誰よりも楽しんでいました。
うつ病の頃に比べたら全然へっちゃら♪
それまでの人生でたっぷり挫折を味わっていた私は
「何があっても、なんとかなる!大丈夫!」
と、強い気持ちを持てるようになっていました。
看護師は天職。それでもフリーランスになった理由
看護師・看護は、自分の天職。
今でもそう思っています。
病院で看護師をしていて、人間関係が嫌だったとか夜勤が辛かったとか、勤務やお金に不満があったわけではないんです。
(あ、でも教育係の先輩がめっちゃ怖かった・・・!プリセプター怖い・・・看護師あるある)
そんな中でどうして辞めたのか・・・
それは、人の生を歪めてしまうほどの過剰な医療を目にして、疑問と葛藤が膨らんでいったからです。
死に向かっている身体に、点滴や胃ろう・輸血・・・。
そこにかかる医療費、本人・家族の苦しさ、医療従事者の負担、使われていく働く世代の税金、膨らむ国の赤字・・・。
私自身、心身ともにボロボロだった時期を何度も経験し、健康の大切さやありがたみを身を持って知っています。
不健康になると分かっている生活を積み重ね、心身を消耗していき、医療に甘え、死と向き合わずに生き、最期に延命治療を受けて苦しんで亡くなっていく・・・。
もっと早くからできることはなかったの?
幸せに生きてこその人生。
毎日を幸せに生き、自分の身体はできる限り自分で守り、死が近づいたときに「幸せだった」と生を全うできる・・・。
それこそが「健康な一生」なのでは・・・?
そう考えたら「ここじゃない。やめよう」と思いました。
何かに突き動かされるように病院を退職。
病気になりにくい身体づくりやメンタルケアなど、予防医学を学んでいくことにしました。
病院の看護師を辞めてからは、自分にできることを試行錯誤して探しトライ&エラーをくり返す日々。
うつ病を乗り越えたあと、私は”自分は一度は死んだもの”だと思って生きてきました。
死ぬんじゃないかと思ったけれど、生かしてもらえた。
苦しみ抜いて立ち上がった今、健康に生きていられることが心底ありがたいです。
これからの人生は社会に貢献して生きていきたいと思っています。
これからは恩返しの人生を生きよう。
・・・うつ病になってから最近まで、そう思っていました。でも・・・
最近になり、たくさんの人とのすばらしいご縁・つながりに恵まれ、
「自分を満たさないと、人のことも満たせないよ」
「もっと自分を大切にしなさい」
と、言葉をかけてもらうことが多くなりました。
他人あっての自分。そして、自分あっての他人。
どこかで「自分なんてどうでもいい」と思っていた私は、フリーランスになってからも自己犠牲で動き回り、
その結果、他人から利用されることもあり疲弊していきました。
自分も救えない人に、他人なんて救えない。
自分を幸せにできない人に、他人を幸せになんてできない。
まずは自分のことを、ちゃんと自分で助けてあげなくちゃ。
そして、2019年5月に移転・リニューアルしたこのブログでは、
「自分を助ける自分づくり」を一番のテーマに、自分の名前である「マイ」をもじって”My助=私を助ける人”というニックネームを自分に付けました。
そして今(2019年8月時点)の活動は、
「医療を提供するために、医療者が疲弊する社会を変えたい。看護師のQOLを高めたい」
「”その人が自分らしく幸せに生きること”をサポートしたい」
「自分も他人も楽しく幸せに働けることや、本人の特性に合った仕事ができるような仕組みをつくりたい」
という想いから、看護師のつながりづくり・心とキャリアづくりの支援に力を入れています。
”人の人生に寄り添い輝かせること”
それは私にとっての看護でもあります。
自分が喜びを感じられることで人の役に立って、人生をより良い方向に導くお手伝いができている。
それが仕事になり、自分が成長し、相手も成長する。
そして高め合いながら、応援し合いながら、感謝し合いながら生きている。
「今が一番幸せ」「明日死んでも後悔はないよ」
そんな風に毎日を笑顔で生きられる人を増やしていきたい・・・!
人と幸せに生きるためにも、まずは自分を満たし整える。
溢れる幸せで周りの人に幸せの円・縁を広げていく。
そんな個人が増えていくこと、社会ができていくことが私の一番の願いです。
だから私は、今の自分にできることとして、
たくさんの人に会い縁をつなげていくこと、そしてこうしてブログやSNSを通して想いを発信し続けていくことを続けていきたいと思っています。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
2023年近況・Youtube発信しています
<管理人・編集長 町田舞>
*I for me♡マイセルフケア~あなたはあなたのために。私は私のために*